The more information, the less you learn
年末の繁華街を旧友との会食の待ち合わせのためぶらついていました。この国のどこが一体不景気なんだろうかというくらいの人でごった返しています。見分不相応なブランド物を身にまとった女性たちが、おそらく彼女たちの自宅のソファーより快適なのではなかろうかというような高級車のシートから街へと繰り出してゆきます。
- 時間つぶしに本屋に寄ります。10年前と比べても格段に情報が多様化しているのが一目して分かるほど情報にあふれかえっています。私の趣味の関係の書籍を見ても昔とは比べ物にならない充実ぶりです。
- 私が20代から興味を持ってきた趣味のいくつかは当時はそれほどメジャーではなく情報はきわめて限られていました。例えば20年前にはフライフィッシングはまだまだ日本では黎明期にあり情報と呼べる物は日本の書籍類からはとても限られていました。それらを探し、さらには海外の雑誌まで探しての情報収集を余儀なくされます。しかし振り返ってみてそれがひとつの楽しさであったことに今更ながら気がつきます。
- 反対に現在はどのような趣味を初めても、大抵のジャンルでは豊富な情報書、マニュアルのたぐいが簡単に入手可能です。一見、良いことのように思えます。しかし私は反対に悲しい飽和感を覚えてしまいます。始める前からです。自分で少しずつその道の知識を楽しみながら吸収したくても、あふれるほどの既存の情報で頭の中は一気に飽和してしまう感じです。与えられすぎたら人間はそれをappreciateすることを忘れてしまうかのようです。そうすると情熱が沸いてこないような気がします。
- 同じ事を英語の習得についても最近感じます。あまりにもありすぎる情報、あまりにも細分化されたノウハウ集、ありすぎるが故の平均的な質の低下。書籍だけではありません。TVも昔では考えられないほどの豊富な英語音声のavailability、ネット上には数え切れないほどの法人・個人の英語学習サイト。それらをいったりきたりで一向に焦点の定まらない英語学習者たちの図式が見えてくるようです。
- ものの習得において自分をハングリーに保つには、自分に過剰に与えすぎないことがある意味、大事なのではと年の瀬の繁華街を歩きながら思いました。
- 与えられすぎて始めた物事は時として、その道の本道を踏み外していることも多いものです。
- 私が30年以上前から続けていたキャンプもなにもないところから始まりました。年に数回、一回1週間程度の人里離れた生活は不便ですが、それは楽しいものでした。そして例のアウトドアブームなるものが始まり、いい加減なマニュアル誌から中途半端な知識を身につけた人々で山野はあふれかえりました。ある日、発電機に電子レンジまで持ち込んでのキャンパーの一人が、テントの横で愛車のぴかぴかのパジェロにワックスをかけているのを見て私はげんなりしました。いつの頃からかキャンプにも行かなくなってしまいました。